皮膚科

においの話(その1)

においの話(その1)

  「におい」という情報は、他の情報に比べ非常に曖昧である。現実に自分たちの仕事上でも、視診、聴診、触診という身体検査上重要な診察法はあっても、嗅診というカテゴリーはない。確かに、皮膚疾患なり、下痢便なりを観察する際に「におい」は情報のひとつではある。しかし、あまり客観性がなく適切に書き記す言葉もない、あまりに曖昧な情報なのだ。けれども「におい」を曖昧と感じるのは我々が進化の過程で嗅覚を退化させてしまったからかもしれない。現実に我々の体は「におい」に反応し、ハーブに効用があったり、女性なら生理が移ったり、蒲焼のにおいにお腹が鳴ったりもする。様々な場面で「におい」が動物の行動や本能に直接訴えかける大切な情報であることがうかがい知れる。これが嗅覚の鋭敏な犬や猫・それ以外の大多数の哺乳動物にすれば、曖昧な情報どころではない、生死を左右しかねない確実で大切な情報に違いないのだ。

  次のカルテはと手に取ると、ヨーキーのパットくん、1歳。お尻を地面にこすりつける。と問診票にある。診察室に入ってもらい話を聞くと、

  「お座りのような変な格好で、お尻を地面に押し付けながら前へ進むんです。虫でも湧いているのでしょうか?」とのこと。

  「条虫や回虫などのせいで肛門がモゾモゾしてそんな行動をとることもないとはいえませんが、先月も定期駆虫していただいていますし、先ほどお預かりした検便にも虫の卵は出ていません。におい袋が満タンになっているのだと思いますよ。」

  そう答えながら、肛門の左右にそっと指を当てると、皮膚の下にコロコロとしたパチンコ球のような大きさのはちきれんばかりのにおい袋が触れる。

  「えっ、に・お・い・ぶ・く・ろ?」と、パットくんのお母さんは、怪訝そうだ。

  「におい袋って、聞かれたことはありませんか? 臭嚢といって肛門臭腺から分泌される「においの元」をためておくための袋で、肛門の両脇にあるんです。袋の出口が肛門の3時と9時くらいの位置に粟粒ほどちょこんと開いています。袋の底には肛門括約筋がくっついていて、排便時に肛門をキュッと締めると袋が締め付けられ、出口から「においの元」が飛び散る仕組みになっているんです。そうやって自分自身のにおいをそこいらへんに付けているんですね。「ここは俺の縄張りだぞ!」っていうことです。スカンクみたいに、さらに発達して敵を錯乱させる武器になっているような動物もいますが、犬や猫ではにおいつけのための道具なんです。」

  「へー、そうなんですか。そんなものがあるとは知りませんでした。」

とお母さん。

  「そうですよね。人間にはないですから、分かんないですよね。」

と、お母さんの威信のために、きちんとフォローは忘れない。

  「ところが、パットくんは、「においの元」がうまく出ないで、どんどんたまり続け、袋がぴちぴちに張りつめて、気持ちが悪くてこすり付けてるんですね。」

  「どうして、パットは出ないのかしら?」

  「そうですよね。良い質問だと思いますが、実ははっきりとこうだという答えはないのです。ただ、圧倒的に室内犬の方が出ない子が多いので、におい付けの行動が少ないということと無関係ではないと思います。自分以外の犬のにおいを嗅ぐことで、縄張りを荒らされると感じてにおい付けをしたくなるわけですから、ずっと室内で自分以外のにおいが無い状況は、ハッスルして自分のにおいを付けようとは思わないですものね。」

  「それじゃ、パットはずっと出ないのかしら?」

  「うーん、出るか出ないかという問題よりも、出たら出たで部屋の中に飛び散るといやーなにおいがしますし、出なければ出ないで、放置しておくと袋が破裂してひどく化膿することもあります。みんなの平和のために定期的に搾る。これが一番ですね。」

  「そんなに臭いんですか?」

  「今からパットくんの袋を搾りますから、分かっていただけると思いますよ。」

  「搾り方も見ていてくださいね。シャンプーをお家でするときなんかに、洗い流しながら搾ってあげるとあまり嫌がりませんよ。櫛を入れてあげるのと同じように、日頃からの手入れのひとつと考えていただければよいのです。」

  「うまく搾れなければ、もちろん病院でも搾らせていただきます。」

  そう言いながら、湿らせたガーゼににおいの元を搾り出すと、例の生臭い何とも言えない動物的なにおいが部屋中に立ち込めた。

  「先生、分かりました。定期的に搾ってあげないと、部屋に飛ばされたら、いくらかわいいパットのにおいでも、我慢することはできないですね。余計なものがついているのですね、犬のお尻には。」

と、顔をゆがめながらお母さん。

  「そうですね。確かに室内犬には不要なものかもしれません。人間にとっては有難くないものですしね。でも、それが一緒に暮らすということですから。」

  パットくんはどう思ったのだろう。少なくともこのにおいは、パットくんの印である。精一杯自分を他の犬に主張するための大切な情報なのだ。

  「人間にとっては臭いと感じるにおいかもしれないが、僕にとっては誇らしいにおいなんだ。」

  そう言いたいのかもしれない。何にせよ、気持ちの悪かったお尻のあたりがすっきりとしたのだろう、お母さんに抱かれて帰って行くパットくんの姿には、すがすがしささえ漂って見えたのだった。

(文責:よしうち)


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