腫瘍学

「がん(癌)」の話

「がん(癌)」の話

  さまざまな物事に対する人の理解というものには、おのずと違いがある。それを埋めるのがコミュニケーションなのだろうが、知識や経験に深く根ざした事柄を、全く無垢の状態の人に伝えるのには、極めて大きな困難が待ち受けている。

  5年間にわたりひたすらこのコーナーのコラムを書き綴ってきたのも、診察室におけるさまざまなコミュニケーションをご紹介し、皆さんの知識の引き出しを増やしていただく一助になればという願いからだ。したがって、診察室の一風景的な、そしてなるべく楽しいコラムを目指して毎月末の更新期限にあたふたしてきた。この「楽しい」という部分は、ひとつの強烈な自分自身へのしばりとなり、結果として深刻な状況のお話を題材として取り上げることを躊躇してきた。バックナンバーを見ていただいても、「がん」の話はどこにもない。けれども、動物たちの寿命が延び、高齢動物が増え、そして慢性疾患と共に腫瘍性疾患も増加の一途をたどっている。このコーナーの筆者として決して避けて通ることのできない話と覚悟を決め、真摯な気持ちで「がん」というテーマにあい対したいと思っている。難解な病理用語は避けるつもりなのだが、ある程度はご容赦いただきたい。

  今回のコラムはその手始めとして、基礎知識編とでもいえばよいのだろうか。診察室の風景は次回以降ということにしていただき、ちょっと堅い話にお付き合いいただければ幸いである。
  「がん」って何? という部分には人それぞれに漠然とした概念があり、うまく説明できる人はとても少ないだろう。それが例え有名な腫瘍学者の説明であっても、とても正しくて学術的かもしれないが、多くの人たちに大きな理解をもたらす説明ではないかもしれない。それは「がん」が、生命の誕生、体の形作り、生命の営み、寿命など、動物の根源的な部分に根ざす異常だからかもしれない。

  生命は受精卵に始まり、卵分割を繰り返し、やがて誕生を迎える。たった一つの細胞から、すべての臓器や組織が形作られるのだ。それぞれの臓器・組織は、それぞれに固有の特徴的な細胞から成るが、いずれの細胞にも同一の染色体が存在し、すべての遺伝情報を保持している。そして、さまざまな制御を受けてそれぞれの臓器・組織に固有の細胞へと分化を遂げているのだ。さらに、その臓器・組織の恒常性を維持するために、ひとつひとつの細胞はプログラムされ、時期が来れば細胞は積極的に死んでいく。このプログラムされた細胞死をアポトーシスとよび、このアポトーシス機構によって生命が維持されているといっても過言ではない。

  人も動物も誕生から長年が経過すると、相当量の化学物質や放射線、さまざまなウイルスの侵襲を受け、遺伝子や分化機構に異常を持った細胞が出現する。いわゆる細胞の「がん化」だ。しかし、この「がん化」した細胞も、その大半がアポトーシス機構によって体から取り除かれ、「がん」の発病を免れているというのが現実だ。

  したがって、「がん」を患うというのは、「がん化」した細胞のアポトーシスそのものに問題が発生してプログラムが壊れ、さらに腫瘍免疫と呼ばれるような免疫機構の網の目をかいくぐって訪れる制御を失った細胞の増殖という状況のことなのだ。
  この制御のたがの外れ方によって、悪性度に高低が生じ、いずれの臓器・組織の細胞に「がん化」が生じるのかによって、症状や経過に大きな違いが出る。臨床上極めて大切なのが、この悪性度と生物学的動態つまり「お行儀」なのだ。

  「がん化」した細胞は、本来の正常な細胞と比べいくつかの点で異なる顔を持っている。例えば核/細胞質の比が高いとか、核仁の数が多いとか、クロマチン濃度が高いとか、多染性があるとか、などなど。これは、より未分化な、すなわち未成熟な顔であり、どの程度正常な細胞とかけ離れているかということを「異型度」という言葉を用いて表現する。この異型度が高ければ高いほど「悪性」であり、ここにこそがん細胞の顔を識別する専門家すなわち病理組織診断医に診断をゆだねる根拠がある。

  しかし、異型性だけですべてを語れるわけではない。同様な「がん」が犬に発生した場合と猫に発生した場合とで、ずいぶんと「がん」の発育の仕方や速度、遠隔地への転移の有無や全身への影響に差のある場合がある。また、どの細胞由来の「がん」かということでも、相当に違いがある。発生から瞬く間に全身へ転移を起こすような「お行儀」の悪いメラノーマのような「がん」があるかと思えば、形態的には相当に異型度が高く悪い顔をしているにもかかわらず遠隔転移はまず起こさない肛門周囲腺腫のような「お行儀」の良い「がん」もある。
  この「がん」といかに向き合い、何をすべきなのか。現場で動物たちの苦痛をじかに感じ、飼主の方々の悲しみを直接受け止めなければならない自分たちの使命は大きく重い。そんな気持ちを胸に、来月から、代表的な「がん」の話をひとつずつご紹介させていただこうと考えている。

(文責:よしうち)


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