2006年1月1日
腫瘍学
「リンパ腫」の話(イヌ編)
「百年生き、百年学び、馬鹿のまま」とはロシアの諺なのだが、新年を迎えるに当たり、頭に浮かぶ言葉はここ何年来この諺なのだ。万年進歩のない自分に対する戒めか、人ひとりの生涯など人類や宇宙の歴史から見れば取るに足りないということか、ただただ愚直に一歩ずつ前進あるのみと、自分を引き締める。
「がん」との戦いの歴史もどこかこの諺に象徴されるものを感じる。できてしまった腫れ物を切除することから始まり、自然界にある細胞毒を研究し化学療法薬(抗癌剤)を見つけ、放射線照射を発明し、腫瘍免疫療法にいたる長い道筋。この「がん」にはこうすれば、あの「がん」にはこうすればと、膨大な人智の積み重ねが、少しずつよい結果を生みつつある。
次のカルテはと手に取ると、雑種犬のロクちゃん、8才、30kg。もう何クール目に入るのだろうと、カルテの表紙裏に貼り付けたウィスコンシンプロトコールの表を確認する。今日はビンクリスチン投与の順番だ。すぐに診察室に入ってもらう。
「どうですか? 変わりないですか?」そうたずねると、
「はい、ぜんぜん普通です。食べますし、元気です。」と、お兄ちゃん。にじみ出る様にロクちゃんへの愛情があふれているのが分かる。
「先生、ずっとこのまま行くんじゃないのと母に言われたんですが、無理なんでしょうか?」
「そうですね。いまの化学療法で目指すものは最長不倒距離です。基本的に完治というものは残念ながらないのです。どこかでリンパ腫は再燃しますし、最後には「がん」のほうが抗がん剤に対する耐性を獲得してはびこる事に成功してしまうのです。」
「再燃すると相当厳しいと考えておいていただいたほうがよいのですが。」
「リンパ腫発症から1年半、ほんとにここまでよく来られたと思います。」
「化学療法によってロクちゃんをリンパ腫の苦しみから解放し、家族と暮らす最後の何ヶ月かを授かる。その何ヶ月かを可能な限り長くしようというのが今の獣医学の限界で、完全に治ってしまうという事は申し訳ないのですが期待しないでください。」
「はい、分かっています。前にも同じことをお聞きしました。でも、こんなに元気なロクを見ていると信じられなくて」
こんな話をしながら、採血を済ませ、血球をカウントする。ロクちゃんは悪性リンパ腫を1年半前に発症した担癌犬なのだ。制癌剤を用いた化学療法をよいイメージで捉える方は少ない。苦しいんでしょ。費用も高くつくんでしょ。それでいて決して直らないんでしょ。と、悪いことばかりが目に付く治療ではある。しかし、ロクちゃんのように体表のリンパ節が首でも腋でも膝の後ろでもといっせいに大きくなり、熱が出て苦しくなるというような多中心型のリンパ腫では、化学療法こそその苦痛を取り除く唯一の治療なのだ。化学療法で苦しみぬく代わりにわずかながらの延命をはかることができるといった、ネガティブなイメージはない。「楽になって長生きできる」本来の医療行為のあるべき姿となんら差のない治療だといえる。延命期間には無論個人差がある。リンパ腫の悪性度が高ければ短くなり、骨髄に転移していればさらに短い。また、複数の制癌剤を用いるか、単剤で行くのか、治療プロトコールによっても中間生存期間には差が出てくる。
ロクちゃんはバイオプシーで悪性リンパ腫が確定後すぐにステロイドとL-アスパラギナーゼで治療に入り、ドキソルビシンに引き継いだが心雑音が出てきたためにウィスコンシンプロトコールに変更し治療を継続していた。
静脈留置針を静脈に設置し、輸液を流し始める。1日だけの入院で、明日にはお兄ちゃんがお迎えに来てくれる。ロクちゃんは、この治療を始めて長いからか嫌がることは全くないけれど、それでもやっぱり入院室は嫌いなのだろう。ケージの一番奥で少々いじけ気味だ。2時間の輸液後に制吐剤などの注射をし、ビンクリスチンをゆっくりと静脈針から注入する。さらに1時間の輸液で本日の治療は終了。看護婦さんには、嘔吐やアナフィラキシーが出ないかどうか、頻繁にチェックしてもらうようお願いしておいた。
翌日、お兄ちゃんのお迎えだ。ロクちゃんは。昨夜の食事を夜中の内にこっそりと食べてくれていた。
「ロク。迎えに来たぞー。」とお兄ちゃん。
尻尾を力いっぱい振りながら、満面の笑みでケージの扉が開くのを待つロクちゃん。
この二人のために、今の寛解の時期が1日も長く続くことを祈らずにはいられなかった。
(文責:よしうち)
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