2006年3月1日
繁殖学
「妊娠診断」の話
「常識」というのは、国・地域・時代など、さまざまな条件によって大きく異なるのが常だろう。つまり、「常識」は決して普遍的ではないというのが常識いや真実なのだ。
人では当たり前のことも、動物では必ずしもそうではない。犬でこうだからといって、猫にはまったく当てはまらない。こっちの常識はあっちの非常識ということが往々にしてあるものだ。
世は少子化の時代に入り、産婦人科の看板を目にする機会が少なくなった。以前○×産婦人科という名前だった病院がおしゃれなレディースクリニックに変身を遂げ、婦人科ばかりが目にとまる。産科はいったいどこへ行ってしまったのだろうと思うほどにお産を診てくれるお医者が少なくなった。
これがひとたび産業動物の世界に目をやれば、人工授精どころか受精卵の移植から果てはクローン動物と科学の最先端を走っている。けれども自分たち小動物臨床の世界はというと、これがどうもいけない。犬や猫の繁殖産科学は学問体系からしても非常に立ち遅れた分野と言わざるを得ない。社会的に捨て猫・捨て犬が問題にこそなれ、繁殖の必要性が切実に論じられる場面は皆無といってよい。そこに経験論的常識があたかも真実であるかのように信じ続けられる余地があるのだろう。今月は腫瘍シリーズをお休みして、犬の産科の話を科学的裏付けの基に書いてみようと思う。
次のカルテはと手に取ると、トイプードルのテッシーちゃん2才。ついこの間、交配の相談を受けてアドバイスしたところと思っていたのだが、日付を見ると、あれから4週間あまりが経過していた。さっそく診察室に入ってもらった。
「せんせ、最短で、交配してから20日すぎたら妊娠したかどうか分かる言うてはったから、気になってしょうないんで、来させてもらいましたわ。」
と、うれしそうな顔をしたお父さんの専制パンチを浴びる。気のよさそうな、妙に無邪気で人懐っこいお父さんの白髪交じりのパンチパーマは、どうみてもテッシーちゃんの頭とお揃いにしているとしか思えない。何とも微笑ましい光景に、思わず笑みが漏れてしまう。
「あはは、確かにそう言いましたが、確実な妊娠診断ではありませんよ。」
「交配後20日ほどで着床が起こり、それから1週間くらいの間、コリコリっとしたビー玉のような胎胞を触診で触知することができることが多いとお話させてもらいました。大型犬や肥満犬では分からないことの方が多いのですが、テッシーちゃんはトイプーですし肥満でもありませんからね。分かる可能性もけっこうあると思います。」
お父さんは何から何まで初体験で、4週間前に交配の相談を受け、初挑戦なのだからダメ元でいちばん早ければこのあたりかなと予測される排卵予定日の交配を勧めていたのだった。
一般的にはヒートとかシーズンといった用語で語られる発情なのだが、それを発情期と呼べばすでにそこには混乱が生じてしまう。一般に発情期とよばれる期間は、学問的には発情前期と発情期と発情後期に分けられ、学問的な発情期は一般的な発情期の中のごく限られた期間を指す。以降に発情期という用語を用いれば、それは学問的な発情期であることをお断りしておきたい。
発情前期に入ると、陰部の腫大と血様おりものが確認され平均5―9日間続く。その間メスは性フェロモンを分泌してオスの興味を引くのだが、性行為には否定的でオスが乗駕しようとすると尻込みし、あるいは戦い、うずくまったりしてしまう。
それが発情期には、がぜん積極的になり、オスが乗駕し始めるとじっとスタンディングし、尾を片方に寄せ交尾を許容する。この期間は6―12日間続く。そして、ほどなくその行動が消失し黄体ホルモンの影響がなくなるまでの2―3ヶ月を発情後期と呼んでいる。
これらの1つの発情周期から次の発情周期までの間には外面的には卵巣の活動が認められない4―10か月(平均7か月)の無発情期とよばれる次の周期への移行の期間がある。
この周期中に起きる最も大きなイベントは発情前期の終わりにあるLHサージと呼ばれる脳下垂体前葉からの黄体形成ホルモン(LH)の急激な放出で、この LHサージが引き金となり2日後に排卵が起きる。また、LHサージによる黄体ホルモンの急激な上昇と卵胞ホルモンの低下が発情期開始という目に見える性的行動の変化を起こさせるのだ。しかし、LHサージと発情期開始時期には、ホルモンレベルの変動に対する個々の感受性の差からプラスにもマイナスにもタイムラグがあり、行動からLHサージのタイミングを予測することを難しくしている。最高の受胎能力はLHサージ後0―5日に交配することで得られることが分かっていても、さてどこで交配するのがベストなのかと迷うことになる。
テッシーちゃんは、まだまだ若く初交配であることから、LHサージによる黄体ホルモンと卵胞ホルモンの変動に対して反応がまだまだ鈍いはずで、発情期の開始がLHサージとほぼ同時〜4日遅れるといったあたりだろうと予測した。これは発情期に入りオスを許容できる状況にさえなっていれば、ほぼその前後に排卵があることを示している。つまり、発情期にできるだけ早く交尾させるのがよい。
一方、犬の精子の受精能が交尾後6―7日ということも含め、妊娠可能な交尾は排卵の前5日間・後5日間ということになる。平均で最も短い発情前期が5日。 LHサージから排卵までが2日。排卵後5日まで妊娠可能。これらを総合して、テッシーちゃんの周期経過がいくら早くても発情前期開始から12日目に交配すれば遅すぎるということはありえない。そのタイミングでオスを許容さえしてくれれば、論理的には妊娠するはずなのだ。許容してくれなければ後へずらせばよい。念を入れるならその後2日間隔で2―3度の交尾をさせれば良いということになる。
もし今回、受胎に成功しなければ、次回は膣スメアー検査や内視鏡検査による交配計画を立てるのが良いことも付け加えておいたのだが、こんなアドバイスを、多分お父さんは結論のみきちんと覚えていて実行に移されたのだろう。
そのアドバイスの最後に、
「せんせ、いつオシッコの検査したら妊娠かどうか分かりますのん?」
と、強烈な質問が来た。
「あれ
は人の話で、人は妊娠が成立すると急速にヒト胎盤絨毛性性腺刺激ホルモンというのを出すんですよ。黄体に退行するなよと命令するホルモンなんですけど。それがオシッコに出るので、出てれば妊娠と診断できるのですが、犬には残念ながらありません。性周期の仕組みが違うので、必要ないんですよね。」
「え、ほなどないしたら分かりますねん?」と、お父さん。
「いわゆる臨床検査的な有効な方法はないのですよ。血液検査も尿検査も妊娠の診断に何の手助けにもなりません。つまり、赤ちゃんを確認することが唯一の診断となります。」
「犬の妊娠期間は63日から64日と言われているのですが、」
と説明を続けようとしたところへ、お父さんがすっとんきょうな声で、
「え、2ヶ月で出てきますのん!へー。」
「あはは、早いですよねー。」
と相槌を打ちながら、さてどのように説明したものかと頭をひねる。
犬の妊娠診断には大きく分けて3つの方法がある。触診、エコー、レントゲンの3つなのだが、それぞれに期間限定と考えたほうが良い。触診で交配後20日目くらいから子宮角に沿って1cmほどのビー玉のようなふくらみとして胎胞を触知できる。この期間は1週間ほどで、35日目にはひとつひとつのふくらみがつながってしまい、やわらかくなって触知できなくなる。25日目くらいからかろうじてBモードエコーで胎児を観察できるようになり、35―40日目をすぎると非常に効果的に妊娠診断できるようになる。胎児の骨格は42日目まではレントゲンが透過してしまい確認できないが46日を過ぎるとかなりはっきりとしてくる。このエコーとレントゲンの関係は互いを補完しあうような関係で、断層で観察するエコーでは胎児数があやふやになりやすく、骨格を投影するレントゲンでは胎児の生死に関する情報が少ない。したがって、35日目くらいに妊娠の有無をエコーで確認し、確実に骨化が進んだ55日目くらいに胎児数を確認するのが良い。その折にはエコーで胎児の心臓を確認し、胎児心拍を計測することも可能だ。
この内容を説明するのにずいぶんとたくさんの時間が必要だったのだが、お父さんはきちんとそれを覚えてくれていて、本日の診察となったのだった。
「それじゃテッシーちゃんのおなかを触診しましょうか。」
そういいながら親指と中指でおなかを挟むように滑らせる。頭の中には妊娠初期に開腹した時の場面が映し出され、ポコポコッとビー玉のようなしこりが感じられた。さらに無意識にその数を知ろうと、指が動く。にっこりと微笑みかけながら、
「おめでとうございます。」とだけ告げる。
お父さんは目をウルウルさせながら、
「入ってますか。そうでっかー。」
と表彰台の真ん中に立つ荒川静香ばりの笑顔だ。
相当に確信があっても、妊娠の継続に問題が生じることもあり、この触診による妊娠診断はあくまでもお父さんの心の準備のためと割り切って、詳細を話すことはしなかった。
35日を過ぎればエコーで検査ができることや、お産に臨む予備知識をお話したのだが、うれしさのあまりお父さんはほとんどうわの空。次のエコー検査のときにもう一度お話をしなければと、3つの胎胞の感触に新たな命の息吹を感じながら、無邪気に喜ぶお父さんが大好きになってしまった。
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