2007年6月1日
皮膚科
「疥癬虫とMDR1遺伝子」の話
何かを熱心に追求すると見えていなかったものが見え始め、思いもよらなかった別の事柄までも解決する糸口が見つかることもある。
ガンに対する化学療法はガンの種類によっては劇的に効果を発揮することもあるのだが、いつまでも同様の効果が続くとは限らない。ガン細胞の多剤耐性の問題だ。この多剤耐性獲得のメカニズムの代表的なもののひとつとしてガン細胞でのP糖タンパクの過剰発現が明らかにされ、P糖タンパクがガン細胞内の薬物を排出することによって細胞内薬物濃度を下げ抵抗性を示すことが知られている。
25年前にガン細胞から初めて単離されたP糖タンパクは、その後、消化管、腎臓、脳などの正常組織に発現していて様々な物質の細胞外排出を行い生体外異物から体を防御する役割を担っていることが明らかにされてきた。
そして2000年にはP糖タンパクをコードする遺伝子=MDR1遺伝子に多型性のあることが見つかり、「なぜ人によって薬の利き方に差があるのか」ということに対するひとつの回答が得られ、遺伝的体質に合わせたオーダーメイドの医療が提唱される所以となっている。
これが、何かしら難しい最先端の人の医療の話かというとそうでもない。自分たち動物の医療に携わるものにとっても大いに関係のあることなのだ。
次のカルテはと手に取ると、洋犬のジョニー君、10歳。体をかゆがるとメモがある。掻痒を呈する皮膚疾患リストを頭の中で確認しながら診察室に入ってもらう。 いかにもかゆそうにボサボサになった被毛、ひじやかかと、おなかにはカサブタと紅斑。
「先生、なんとかこのかゆみをとめてやってください。」といきなりお母さん。
「こりゃかゆそうですね。ところで、お母さんもかゆくはありませんか?」
と問うと、やっぱりという表情で、
「人間にもうつるんですよね。」
「これから皮膚の掻き取り検査をしますが、疥癬というダニの仲間による皮膚炎だと、人間も咬まれてかゆくなります。でも安心してください。ジョニー君に住み着いている疥癬がたまたま人を咬むだけで普通は人間にずっと住み着くことはありません。つまり、ジョニー君を治療すれば、ご家族が咬まれることはなくなりますから。」
疥癬にはヒト疥癬、イヌ疥癬、ネコ疥癬などの種類があり、本来それぞれがそれぞれの宿主に住み着き、通常違った動物種には住み着くことができない。ヒト疥癬はナポレオンの戦意を喪失させた真犯人として有名だ。
そう説明しながらジョニー君の皮膚を鋭匙で掻き取り顕微鏡でのぞいてみると、もぞもぞと疥癬虫が何匹もうごめいている。モニターに顕微鏡の画像を出力すると、
「ひゃー」と顔色をなくすお母さん。
大急ぎで治療計画の説明をはじめたのだった。
疥癬虫にはオスとメスがあり、交尾を終えたメスは角質層にトンネルを掘りそこで卵を産む。卵は3〜5日で孵化し何度かの脱皮を経て2週間ほどで成虫になり交尾するということを繰り返す。外用での治療も効果は期待できるが、その労力と完治ということを考えると、注射もしくは内服が可能なイベルメクチン製剤による治療がもっとも効果的でリーズナブルと言える。
ここで、冒頭のMDR1遺伝子の話なのだ。もともとイベルメクチン製剤とイヌとのかかわりは深い。それはイベルメクチン製剤がフィラリアの予防薬のひとつでもあるからなのだが、その使用が始まった20年程前、コリーとシェルティーでは副作用の可能性があるとの情報が流れた。実際にはフィラリアの予防に使用するような薬用量では全く問題ないのだが、その研究段階では大量投与によって確かにコリーやシェルティーで神経症状の発現があったらしい。そしてその原因として、血液脳関門が未発達な犬種だからと考えられていた。そして現在、この血液脳関門の主体となっているのがP糖タンパクらしいということになり、研究が進められた結果、これらの犬種にMDR1遺伝子の欠失などの異常が見つかっている。
「これだけ全身にひろがった疥癬ですから、飲み薬など全身投与のできる薬での治療がベストと思いますが、いま説明したような理由で、副作用が出ないことを確認してから使用したいのです。MDR1遺伝子の検査をさせていただいてよろしいですか。」
お母さんとしてはダニがわいたくらいに考えていたところへ、飲み薬の特効薬があり、事前にその特効薬の副作用の出ないことを遺伝子検査で知ることができるという、およそ動物病院というイメージからかけ離れた先端医療のような話に、ただただへーっと感心しきりで、
「すごい時代になりましたね。もちろんよろしくお願いします。」 と目が潤んだような感動の表情すら伺える。
「結果が出るまでの間、放置するのもかわいそうですから薬浴剤をお出ししておきます。これだけでもずいぶん楽になると思いますが、遺伝子に異常がないという結果が出れば速やかに内服治療を開始しましょう。」
ちょっとシェルティーっぽい顔をしたジョニー君にMDR1遺伝子の異常がなければよいのだがと願いつつ採血を済ませ診察台からおろしてあげると、早よ治してやーと言わんばかりに体を掻きはじめた。
「(だいじょうぶ、もうすぐぐっすり眠れる日が来るからね)」
と心の中で話しかけたとき、すりガラスを引っ掻くような痒みが自分の二の腕の内側に走った。
「ジョニー、これはノーサンキューなお礼やわ。」
(文責:よしうち)
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