感染症

「FIVワクチン」の話

「FIVワクチン」の話

 炭素の循環を考え、穀物からバイオ燃料が作られ始めた。このバイオエタノールが穀物価格の高騰を招き、スーパーマーケットに並ぶ生活必需品がいっせいに値を上げ始めた。バイオ燃料を推進していた人たちにとっては寝耳に水、予想だにしなかったことなのだろう。「あったらいいな」が実現し現実のものとなったとき、初めて見えてくる事柄も多いものだ。

 次のカルテはと手に取ると、日本猫のナナちゃん3ヶ月令。ワクチンとメモ書きがある。自分の記憶では、ロクちゃんが新入りとして家に迎え入れられてからそんなに月日は経っていない。VTさんにロクちゃんのカルテも持ってきてもらい、ナナちゃんに診察室に入ってもらった。

 「先生、また増えちゃいましたー。」と、にっこり笑いながらお母さん。

 「いやー、前の子にロクちゃんと名前をつけはったときからヤバイなーと思ってたんですよ。」と、切り返す。

 「ハハハ、名前を考えるのがめんどくさくなっちゃって。」と、屈託がない。

 「予防ですね。みんなと一緒の5種でいいですね。検便は持ってきてはりますか?」

 「抜かりはありません。でも、プロフェンダーもお願いします。それとウイルスのチェックも。」

 ここで少し解説しておこう。この飼主さんはウルトラがつくほどの優等生オーナーで、予防医学についての知識も深い。そして何より自分がノラちゃんと眼が合ってしまったときに見て見ぬふりができないことをよく自覚しておられる。そしてきょう17人目の家族がやってきた。過去の幾多の経験から、予防の重要性については骨身にしみて分かっておられる。FeLV陽性猫を保護してきて家族全員が感染の脅威に脅かされたこと。回虫の蔓延による定期駆虫の必要性。コクシジウムの検出など繰り返しの検便の必要性。等々

 「そうですね。まず身体検査とウイルスチェックから始めましょう。」

 そう言って、眼をクルクルさせながら診察台の上でぶら下がった駆血帯にちょっかいを出しているナナちゃんを抱き上げ、身体検査をし、採血をする。

 「良かったですね。FeLV、FIV共に陰性です。検便の結果も寄生虫卵は見つかりませんでした。5種混合でよろしいですね。射ったあと少ししんどいかもしれませんが。」

 「ええ、もちろん。また陽性猫を拾ってこないとも限りませんから。」

 左大腿皮下に5種を接種し、「イタイワー」と聞こえないでもないナナちゃんの鳴き声に「ゴメンゴメン」とあやしながら、次にすべての消化管内寄生虫を駆除できるプロフェンダーを背中に滴下する。

 「ありがとうございました。」とお母さん。

 お母さんもナナちゃんもこれで今日の大仕事は終わったと、ホッとした表情に安堵感が漂っている。そこへ、

 「お知らせがあるのですが、少しお話してもよろしいですか? もうすぐ、FIVのワクチンが日本で発売になるんです。」

 「え。そうなんですか?それじゃあみんなに射たなくっちゃ。」

 「ええ、それはそれに越した事はないのですが、どういう風に進めていくかですね。」

 「どういうことでしょうか。」

 「そうですね。人のエイズワクチンがまだ実用化されていない時期に、それに先立ってネコ用が認可になったわけですから、それなりに開発も難しく、色々な注意点もあるということなんです。今からそれをご説明しましょう。」

 そう言って、ネコエイズワクチンの説明を始めたのだった。FIVワクチンの接種に関してはいくつかの留意点がある。FIVという病気の性質からして、ワクチン接種の効果があったのかどうかの判定が非常に難しい。仮にワクチンの効果が十分でない場合にFIVの感染を許したとしよう。しかし、FIVでは無症候のキャリアー期が長いため、その間気付くことはない。調べる気になっても、実は現在その方法がない。FIV感染では感染初期の急性期に抗体が上昇しウイルスはCD4+のTリンパ細胞に雪隠詰めになり、長い無症候期に入る。一方、ワクチン接種した場合に抗体は上昇し、動物は免疫されることになる。現在FIV検査として利用可能なELISAによる抗体検査では、感染猫もワクチンで免疫された猫もFIV抗体陽性つまりFIV陽性と判定される。つまり、ワクチンを射ったが最後、感染猫と免疫猫の鑑別は不能となる。これは、ワクチンの開発者にとっても同様で、その効果の証明に攻撃試験を用いざるを得ず、発症の防御ではなく感染の防御能を求めることになる。
 それやこれやで、初回接種前にはウイルスチェックが必要なこと。(生活歴が不明な場合には検査の前に8-12週間の検疫(隔離)期間を設ける必要もある。)初回2〜3週間隔での3回接種が必要なこと。他のワクチンとの干渉作用を避けるため、単独での接種が必要なこと。免疫猫と感染猫の識別のため、ワクチン接種後には何らかの個体識別が必要なこと。一般的なワクチン接種後に抗体価があがれば免疫されたと単純に判定できる病気とは大きく様相が異なる。

 「すみません。ちょっと込み入った話になってしまって。一気にご理解いただくのは難しいかもしれません。FIVワクチンが発売されれば、どういう風にワクチネーションを進めていくか相談しましょう。」

 「そうですね。まだうまく理解できていないですし、初めてのときは3回で5種とは別に射つんですよね。それだけでも、ハードルは高いですから、お願いするつもりではおりますが、段取りをよく考えて見ます。」

 「そうですね。今現在、感染猫を識別するためのPCR検査という遺伝子検査が開発中と聞いています。保護された猫の検査も含め安心してワクチンを射つことが出来るようになるのも近いですからね。」

 こんな話をしながら、本日の接種証明書と証明書ホルダーを手渡した。そのホルダーの表紙にはナナちゃんのやんちゃそうな笑顔の写真が輝いている。

 「良い人に保護されてほんとに良かったね。」

 ワクチンホルダーの端をしきりにかじっているナナちゃんに、そっと声をかけずにはいられなかった。

(文責:よしうち)



大阪市の南大阪動物医療センター

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