2010年4月1日
感染症
「猫のフィラリア症」の話
「ネコは小さなイヌではない。」とは動物の臨床の世界で言い古された教訓で、本コラムでも何度か紹介させていただいた。イヌとネコの絵を書いてみると、それなりに絵心に自信でもない限り、イヌとネコを書き分けるのは難しい。これがコンピューターの画像認識の問題となると、さらに難儀なのかもしれない。見かけはそうでも、イヌとネコとは違う。食性は片や雑食、片や肉食、行動学的にはイヌは集団行動、ネコは単独行動、その結果として罹りやすい病気も違えば、ペットフードの組成も違う。全く異なる生き物なのだ。
さて、その異なる生き物を見境なしに蚊が刺せばどうなるか。そしてその蚊がフィラリアを持った蚊だったらどうなるか。今月はそんなお話をしてみようと思う。
フィラリアというとイヌの寄生虫病でヒトやネコには関係が無いように感じる方も多いだろう。確かに近年の日本で猛威をふるっているのはイヌのフィラリア=イヌ心臓糸状虫であることは確かだ。けれども多くの脊椎動物にはそれぞれの種に固有の糸状虫が存在し、無論、人には人固有の糸状虫が存在する。東南アジアなどにおける象皮症の原因として知られているバンクロフト糸状虫はアフリカ大陸、アラビア半島南部、インド亜大陸、東南アジアや東アジアの沿岸域、オセアニア、中南米と世界の熱帯、亜熱帯を中心に広く分布し、日本でもかつては九州全域や南西諸島を中心に、北は青森県まで広く患者が見られた。西郷隆盛が罹患していたのは有名だ。
わざとややこしい話にしようというわけではないが、バンクロフト糸状虫ではなく、イヌ心臓糸状虫が蚊を介してヒトに入ればどうなるか? 大半のフィラリアの幼虫は発育できずに死滅し、何事も起きないというのが一般的だ。例外的にはある程度の大きさの幼虫にまで発育し、最終的には死滅するのだが、その際に肺に結節を形成する場合などが報告されており、イヌ心臓糸状虫がヒトと動物の共通感染症のカテゴリーに入れられる所以となっている。専門的には、このような宿主特異性を無視した感染を異種寄生と呼んでいる。
それでは、ネコにイヌ心臓糸状虫が蚊を介して侵入すればどうなるか? 結果は、感染が成立し、フィラリアはちゃんと発育するのだ。したがって、ネコもイヌ心臓糸状虫の終宿主(最終的な寄生相手)と言うことができる。異種寄生ではないのだ。この部分では冒頭に述べた教訓は当てはまらない。イヌ心臓糸状虫にとって、ネコは小さなイヌなのだ。
ただし、イヌ心臓糸状虫にとって、終宿主としてのネコは、イヌと比べて色々勝手の違うこともあるようだ。ネコは宿主としての抵抗が強く、いささかイヌと比べて住み心地が悪い。したがって、最終的に成虫となって寄生する数も少なく、発育を終えたフィラリアのサイズも小さい。成虫の寿命はイヌでは5〜7年、ネコでは2〜3年と言われている。つまり、ネコはイヌ心臓糸状虫にとって、最適の寄生相手ではなく、幼虫のまま猫の体内で死んでいく場合も多い。さらに、成虫が産み落とすミクロフィラリアと呼ばれる子虫はイヌの抹消血液中で2年程度の寿命を持ち、蚊がイヌから吸血する際に蚊の体内に侵入するのだが、ネコの末梢血液中では1か月程度しか生きられない。確率論ではあるが、感染しているネコが他の動物の感染源にはなりえないと言うことだ。
これらのことは、寄生虫病学としては、ネコはイヌ心臓糸状虫の生活環の重要な部分を締めるものではないことを指しているのだが、一方で、ネコの病気を治すのが使命の臨床獣医師にとっては、やっかいなこと尽くめだ。
イヌ心臓糸状虫の子虫がネコに侵入すると、ネコの体の抵抗にあい、すくすくとは育たない。したがって無症状のことも多いが、幼虫のままからだの中をさ迷い、中枢神経系や全身の動脈に迷入して失明や失神などの思わぬ症状を現すこともある。よしんば本来の寄生部位である心臓や肺に到達しても、そのまま死滅して肺に急性の炎症を起こさせたりする。成虫も長くは生きれず、短期間に死滅して肺動脈を塞栓し、突然死を起こさせたり、呼吸困難の原因となる。
書いていてもまとまりが無いのだが、まさにネコのイヌ心臓糸状虫症というのは、とらえどころが無い病気なのだ。その上、ミクロフィラリアをチェックしても陰性の場合がほとんどで、診断の決め手にはならない。フィラリア抗原が検出されることも極めて稀だ。ならばとフィラリア抗体をチェックしても、陽性=感染とは言い切れない。幼虫のまま死滅して抗体が残っているだけの事もあるからだ。
つまり、臨床獣医師がネコの診療でイヌ心臓糸状虫に到達するには、症状からアプローチしようとしても、検査からアプローチしようとしても、大きな困難が立ちはだかっているということになる。裏を返せば、原因不明の突然死や呼吸困難が実はイヌ心臓糸状虫によるものだったという可能性を常に考えておかねばならない。はっきりさせるのであれば、死後剖検以外にはないが、ネコの健康を守るという意味合いからは遠く離れた話になってしまう。
残念ながら、ネコのイヌ心臓糸状虫症は、罹患の確率は低いのだが、効果的な診断や治療法に乏しく、事故にあったようなものと諦めるか、積極的に予防するかの、両極端の二者択一以外にはないというのが現実だ。
ならば、積極的に予防しようという飼い主の方が増えてきている。与えるのに苦労する飲み薬ではなく、背中に滴下するだけのセラメクチン製剤が上梓されたからだ。しかも、お腹の虫やノミまでも駆虫できてしまう。もともとノミ駆除で同じことをしているのだから、少しの料金アップでフィラリアも予防できるのならばということらしい。薬剤の進歩が、手をこまねくしかなかった病気から動物を守ってくれる。素直に、多くの研究者の方々に感謝したいと感じるのは、取りも直さず自分も愛猫家の一人だからに違いない。
(文責:よしうち)
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