2015年12月1日
感染症
1. 猫コロナウイルスには病原性のみが異なる2つのバイオタイプがある。
2. この2つのバイオタイプは遺伝子的に区別できる。
3. 猫腸炎コロナウイルスに感染している猫の体内で、
突然変異によって猫伝染性腹膜炎ウイルスが発生する。
4. 突然変異の内容は、
a)ORF 3c 部分の遺伝子欠失
b)スパイク蛋白(S1,S2)遺伝子の変異
そもそも、コロナウイルスは分子量が大きく、日常的に遺伝子の変異が起きているようなウイルスなのです(中立論的な遺伝子の浮動)。分かりやすく言えば、大きすぎてたびたびコピーエラーが起きるようなウイルスということです。その中で、ORF 3c 部分は腸管での増殖に必要な部分で、猫伝染性腹膜炎ウイルスはそこが欠失するため、腸管では増えず、便に排泄されることもなく、したがって、水平感染もしないということになります。スパイク蛋白についてはインフルエンザの項でも少し触れましたが、細胞側のレセプターへの結合能に関連しており、その変異によってマクロファージに侵入するようになると考えられています。
「猫伝染性腹膜炎(FIP)」の話
今から30年ほど前、動物病院を開業して5年ほどが過ぎて忙しくなってきたこともあり、スタッフを雇用し始めたのですが、法規も含め知らないことだらけでした。そこで、その当時、中之島の阪大図書館跡地に開校していた放送大学に、通い始めたのでした。週に2コマだけの受講生でしたが、「企業と人材」などの経営学の講義を必要に駆られて、「進化論」や「集団遺伝学」などの自然科学の講義をご褒美として、毎週休みの日にせっせと通ったものです。
その中で最も印象に残った講義が、木村資生先生の「分子進化の中立論」のビデオ講義でした。「分子レベルでの遺伝子の変化は大部分が自然淘汰に対して有利でも不利でもなく(中立的)、突然変異と遺伝的浮動が進化の主因であるとする説」で、難解な中にも、生物進化の基本的な部分を確立したという自信に満ちた講義でした。
この遺伝子の変化は、例えばインフルエンザウイルスの抗原性の変化として読みかえるなら、スパイクの抗原性が変化しても、インフルエンザウイルス自身にとっては自然淘汰に有利でも不利でもないために、相当な頻度で起きても構わないということになります。そして実際に、パンデミックなインフルエンザの流行が、歴史的には繰り返されているのです。(Sep’14「エボラとインフルエンザ」の話 参照)
さて、ここからが本題です。長年にわたって猫たちやそのオーナー、獣医師を悩ませてきた猫伝染性腹膜炎(FIP)という病気があります。腹水や胸水の貯留、網膜や髄膜の炎症性病変などが見られる難治な感染症ですが、最近になってようやくその全貌が解き明かされつつあります。
猫伝染性腹膜炎の原因がコロナウイルスだということは、以前から知られていました。けれどもほとんどの猫のコロナウイルスは腸炎コロナと俗に呼ばれるような、消化器に感染するウイルスで、症状もほとんど出ない弱虫コロナなのです。しかし、その弱虫コロナと同一のウイルスによって、猫伝染性腹膜炎が引き起こされるという現実に、お手上げ状態だったのです。
ところが、Ⅱ型コロナウイルスの発見によってFIPウイルスの培養が可能となり、研究が急速に進みました。最近の研究によって明らかとなったのは以下の通りです。
1. 猫コロナウイルスには病原性のみが異なる2つのバイオタイプがある。
2. この2つのバイオタイプは遺伝子的に区別できる。
3. 猫腸炎コロナウイルスに感染している猫の体内で、
突然変異によって猫伝染性腹膜炎ウイルスが発生する。
4. 突然変異の内容は、
a)ORF 3c 部分の遺伝子欠失
b)スパイク蛋白(S1,S2)遺伝子の変異
そもそも、コロナウイルスは分子量が大きく、日常的に遺伝子の変異が起きているようなウイルスなのです(中立論的な遺伝子の浮動)。分かりやすく言えば、大きすぎてたびたびコピーエラーが起きるようなウイルスということです。その中で、ORF 3c 部分は腸管での増殖に必要な部分で、猫伝染性腹膜炎ウイルスはそこが欠失するため、腸管では増えず、便に排泄されることもなく、したがって、水平感染もしないということになります。スパイク蛋白についてはインフルエンザの項でも少し触れましたが、細胞側のレセプターへの結合能に関連しており、その変異によってマクロファージに侵入するようになると考えられています。
マクロファージ(3つのピンク色の細胞)に侵入するFIPウイルスのイメージ図とその構造模式図
少なくともこの2つの遺伝子変異によって猫腸炎コロナウイルスは猫伝染性腹膜炎ウイルスに変貌を遂げ、病原性を発揮することになるのです。ここで、注意深い読者の方はお気付きのことと思いますが、猫伝染性腹膜炎ウイルスは、猫に伝染しない可能性が高いということです。中立論的に言えば自然淘汰に不利な「増殖〜排泄に関連した遺伝子変異」が起きているわけで、猫伝染性腹膜炎ウイルスへの変異が体内で起きた個体だけを滅ぼし、自分も滅びてしまうという運命をたどります。
これらのことは、多頭飼育している家庭で、1頭だけが猫伝染性腹膜炎を発病するなど、発生が散発的であることとよく一致します。しかし、猫腸炎コロナウイルスの感染率は、国内で50%にものぼり、その中でたまたま前述のような変異を起こしたウイルスが猫伝染性腹膜炎ウイルスになるとはいえ、かなりの数の伝染性腹膜炎が発生することになります。最近の研究の成果として、コロナウイルスの遺伝子の変異を検出することが可能となりました。従来のコロナウイルスに対する抗体価検査と併せ、滲出型伝染性腹膜炎の確定診断が可能になったことは、一定の前進といえるでしょう。
今後、ますます研究が進み、現在知られている変異以外にも、いくつかの変異の様式が見つかるかもしれません。また、変異の引き金となる要因なども解明される可能性があります。さらに、変異ウイルス発生のメカニズムに着目した治療法や、予防法が確立されるかもしれません。
病原微生物の進化は、宿主の免疫機構、さらには人類の英知をかけた治療法や予防法と複雑に絡み合いながら、淘汰を逃れ、種の存続に走ります。猫伝染性腹膜炎ウイルスが、実は「猫伝染しない腹膜炎ウイルス」であったことは幸いだったのかもしれません。野生動物の絶滅危惧種が増える中、病原微生物こそが絶滅に追い込まれるべき種ではないのかと、人類の感染症との戦いの果てしなさに思いを巡らせるのでした。
(文責:よしうち)
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