行動学

においの話(その2)

においの話(その2)

  昨年の暮れだったか、駅前に大きな薬局ができた。薬店なのかもしれないが、それはどちらでもよい。案外若者たちはすんなりとドラッグストアと呼んでいるのかもしれない。破綻した銀行の跡地にできたのだから、売り場面積は相当なものである。

  その売り場の中に、こんなにたくさん種類があるのかと思えるほどの芳香剤や消臭剤が並べられている一角がある。スプレーもあれば、ゼリー状のものもある、もちろん液体のものもあって、コンセントに差し込んで加温するようなものまであるのだ。いい匂いと言うと食べ物の話のようで、よい香りと言うとコーヒーを連想してしまうが、お部屋の中は、やはりよい香りが漂っているほうがよいとみえる。今風の言い方をすれば「癒し系グッズ」のひとつということなのだろう。お部屋の香水というキャッチコピーがつけられているものもあったが、逆に無香性消臭剤を謳い文句にしているものもある。

  現代日本人は無臭な国民であるとよく言われる。主義主張という意味でもそうなのかもしれないが、体臭を極端に嫌う民族でもある。入浴の習慣とも無関係ではないだろう、たしかに、こんなに毎日風呂に入る民族は他にない。それゆえか、香水と言っても強烈な香りを撒き散らすようなものは好まれないようだ。日本の空港を歩いていてもあまり気になることはないが、海外の空港を歩いていると、すれ違った途端にクラッとめまいしそうなほどの香水を身にまとっている人は少なくない。文化の違いと言えばそれまでかもしれないが、日本でも平安朝の十二単は洗濯するわけにも行かず、お香を焚いて着たきりの異臭を紛らしたと聞いたことがある。ならば、時代の違いとも言えるだろう。何せ今の日本、無臭であることが文化的であり、美徳であると考えている人がかなり多いということだけは確かなようだ。

  動物たちはどうなのだろうか。先月のコラムでも書いたように、決して人間にとってありがたいとは思えないにおいで、自分の存在を主張したりする。そこにはフェロモンと呼ばれる、行動に変化を起こさせる物質が密接に関連している。このフェロモン、人でも動物でも研究は盛んなようで、同種の動物同士で感知され、それによって性的または社会的行動に変化を起こさせる物質と定義されている。時には興味本位に性的誘引物質と解釈され、モテモテの人を揶揄して、フェロモンを撒き散らしているなどと表現されることもある。某化粧品メーカーからフェロモン入りの香水が発売されたらしいが、必ずしも惚れ薬とはいかなかったようだ。しかし、動物たちにとって、フェロモンは生きていく上での重要な情報であり、種の保存に直接関与する根源的なシグナルメントであることは間違いない。

  次のカルテはと手にとると、メメちゃん、日本猫、♂、5歳。メモが挟んであって、お母さんのみ来院。メメちゃん来院なし。相談。と書いてある。はて、何の相談だろうと考えながら診察室に入ってもらった。

  「どうされたんですか?」と訊くと、

  「メメがへやのあちこちにオシッコをかけてまわって、困ってるんです。」とのこと。

  「1年程前にご近所の人にタマタマをとれば直ると言われて、前の先生のところで虚勢手術をしてもらったんです。こちらへ引っ越してくる前なんですけど。それで、少しマシになったように思っていたのですが、こちらへ引っ越してきて、しばらくした頃からまただんだんひどくなってきて、新築の家が台無しで、ほとほと困っているんです。」

  本当にお気の毒な話である。オシッコだけなら少しはマシなのだろうが、話を聞いていると、臭腺からも飛ばしている様で、新築の家に異臭が漂い、泣きたいでは済まされそうにない状況のようである。

  「メメちゃんのとっている行動はマーキングと言うのですが、そもそもはオス猫として縄張りを主張するための行動だったはずなんです。」と説明をはじめた。

  「たいていは、去勢をすることでおさまります。80%位は直るということですね。」

  「けれども、20%の猫は去勢するまでにしていたオスとしてのマーキングの行動が行動パターンとして大脳に刻印されてしまい、男性ホルモンに支配されなくなってからも行動が続いてしまうと言われています。」

  「メメちゃんの場合は、そこにもうひとつ引越しと言うイベントが加わっていますから複雑ですね。」

  「実際、去勢されてから、引越し前にはおさまりかけていたようですものね。」

  ここで、猫の行動、本質というものを理解してもらわなくてはならない。猫のにおい付けの手段には、尿、糞便、臭腺分泌物以外にも、顔面や手のひらに存在する皮脂腺の分泌物などがある。家の柱に顔をスリスリこすり付けたり、爪磨ぎするのもにおい付けの行動と考えられている。そしてそういう行動の総合的な成果として、家の中を自分のにおいで満たし、自分自身のにおいに包まれて、心底安心して生活し、眠ることもできる動物なのである。

  メメちゃんの場合、虚勢後にマーキングの行動を忘れかけ、そのままならせいぜい柱に顔を擦り付けたり、爪磨ぎしたりするだけで、十分安心な環境が保たれ、マーキングはなくなっていたかもしれない。しかし、突如わが身に降りかかったのは引越しという事態だったのだ。これは、青天の霹靂といってもいいだろう。まったく自分のにおいのない場所へ連れて行かれてしまったのだ。顔を擦り付けるくらいではとても安心できなかったのだろう、忘れかけていたマーキングの行動がよみがえり、部屋という部屋の壁の50cmくらいの高さはすべて、自分の尿と臭腺のにおいで塗り固めてしまったのだ。

  「もう去勢をしたから大丈夫と思ってタカをくくっていたんです。」そう言いながら、お母さんの顔は絶望感に歪んでいるように見えた。

  「あきらめなくてもいいですよ。何とかなると思いますよ。」

  「えっ!」と意外そうなお母さん。そこで、あわててお母さんに治療の話をはじめた。

  猫のスリスリの話は先のとおりだが、その成分を研究している会社があるのだ。顔からのにおい付けの成分をフェイシャルフェロモンつまり顔面フェロモンと呼んでいる。5つのフラグメント(分画)に分かれるらしく、そのひとつがすべての猫に共通で、安心感を呼び起こすことが明らかになっている。そして、その成分をスプレーとして商品化することに成功しているのである。最近では蚊取りリキッドのようにコンセントに差し込んで気化させるようにしたものまで販売されるようになった。新築のおうちなので、主にメメちゃんがいる部屋のコンセントには気化器を、繰り返しマーキングを行う場所には毎日スプレーを吹き付けてもらえばよい。安心フェロモンが部屋の中に漂うにつけ、徐々にマーキングの回数は減っていくことだろう。

  「これがそのフェロモンです。」そういって差し出すと、

  メメちゃんのお母さんは、解決の糸口にようやくたどり着けたという思いからだろう、抱きしめるようにその手に握り締め、「ありがとうございます。」とさわやかな笑みをこぼしたのだった。

  お母さんに看護婦さんが気化器の説明をしている間にふと思った。現代の日本人にとって、本当に無臭がよいと言えるのだろうかと。そして、加齢臭なるものを気にして出勤前にシャワーに入る自分自身を考えなおしてみたくなった。

* フェイシャルフェロモン製剤はビルバック社よりフェリウェイという商品名で獣医師を通じ処方されています。

(文責:よしうち)


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