2003年6月1日
皮膚科
ノミの話
何年位前だったろう、パラサイトという言葉が流行った時があった。流行語というのは、すぐに廃れ、忘れ去られていく。しかし、動物たちにとっては、現在もなおパラサイト=寄生という言葉は死語ではない。いや、それどころか、人間にとっても、むしろ大きな問題となりつつあるのかもしれない。
寄生という言葉からは寄生虫が連想されるが、寄生虫には内部寄生虫と外部寄生虫がある。戦後間もない日本人にとって、もっとも一般的な外部寄生虫はシラミだったろう。進駐軍がそれを嫌い、DDTの白い粉を日本人の頭に撒きまくった。内部寄生虫の代表はヒト回虫だろう。人糞が唯一の肥料だった時代、回虫寄生は少しも珍しいことではなかった。その時代から半世紀を隔て、現代の日本人の暮らしは、寄生虫とは無縁に見える。しかし、DDTに代表される農薬の多くが、土壌汚染や発ガン性の問題で製造禁止になり、さらに化学肥料に頼る農業から有機農業への回帰が盛んだ。この動きに歩調をあわせ、いろいろな寄生虫たちが復活を目論んでいるとしても、そこには何の不思議もない。
身近なところでは、動物たちに寄生するノミである。むやみに農薬を使用しなくなったことが、ノミには幸いしている。動物たちの数が多くしかも農薬に対する規制の厳しいアメリカでは、公園のベンチに座れば、地面を飛び跳ね動物の体をめがけてジャンプする凄まじい数のノミが目撃されるという。日本ではまだそこまでの状況はないようだが、それでも、夏になるたびに、このノミに悩まされる動物たちの数は、決して少なくない。そして、このノミが媒介する Bartonella henselaeという菌こそ、「ネコひっかき病」の原因菌なのだ。ネコを飼っている人だけの話と侮るなかれ。この病気は、多くはネコから受けた傷がもとで人間が発病するのだが、少数ではあるがイヌからもたらされる事もあり、また、ノミから人へ直接に感染が成立することもあるのだという。詳しくは、次のHPを参照されたい。
さて、次のカルテはと手に取ると、柴犬のさくらちゃん、10歳。尾の付け根が禿げてきて、滅茶苦茶カユガる、とある。あー、今年もそんな季節になったのかと、夏の訪れを知るのだ。
さくらちゃんに診察室に入ってもらい、お母さんから話を聞く。
「シッポの付け根のところが物凄くカユイみたいで、歩きながらでも振り返り振り返り口で噛んでるんです。夜もろくすっぽ眠れないみたいです。」
可哀想にさくらちゃんの背中の後ろの方、尾の付け根はぺんぺん草よろしく脱毛し、皮膚にはカサブタができ、分厚くなって紅くただれた所もある。診察台に白いシートを敷き、目の細かい櫛を通すと、少しのノミの成虫と多量のノミ糞がパラパラッと落下した。
「ノミがいますね。」と言いながらすかさずアルコール綿花でノミを捕まえ水に浸ける。
「この黒い細かい粉はノミのウンチですね。」これもアルコール綿花で拭き取りしばらくふやけさせると、赤黒く血様に滲んでくる。
「ノミのせいですか。こんなにカユイのは?」とお母さん。
「そうですね。今から言うことを注意深く聞いてください。」そう言って説明を始めた。
ノミで皮膚に起きる問題は、大きく2つに分けることができる。ひとつはノミ刺傷、そしてもうひとつがノミアレルギー性皮膚炎である。ノミ刺傷は多くのノミに寄生され、「全身虫刺され状態になっています」ということ。ノミアレルギー性皮膚炎は、「何年かノミ刺傷を繰り返したせいで、ノミの唾液に対してアレルギーを起こすようになり、毎年ノミに刺され始めると激しいアレルギー性皮膚炎を繰り返し起こすようになってしまいます」ということなのだ。刺傷はノミ退治をすれば簡単に収まるが、ノミアレルギーは、イヌの皮膚炎の中で最もカユイもののひとつで、アレルギーに対する対症療法なくしては収まりがつかない。ステロイドの乱用に対する警鐘が鳴らされて久しいが、ノミアレルギーだけは、いったん発症すれば、ステロイド抜きに治療は成り立たない。それほどカユイのだ。
「さくらちゃんは典型的なノミアレルギー性皮膚炎ですね。お薬の飲み方などをあとで説明しますので、きちんと飲ませてあげてください。2-3日で、魔法にかかったようにカユミが無くなります。でも、それはお薬でアレルギーを抑えたということに過ぎませんから、原因であるノミ寄生を完璧にコントロールしないと、結局は再発しますし、毎年同じ時期に同じことの繰り返しになってしまいます。」
そう説明しながら、今度はノミコントロールの話を始めた。ノミを退治するとひとことで言っても、そうたやすいものではない。人間社会を例に取れば、幼稚園・小学校から大学・一般社会・老人の家までいろいろなステージがある。ノミにも、卵・幼虫・さなぎ・成虫というステージがあり、気温が13―32℃であれば、最短1ヶ月ほどでそのサイクルを1周してしまう。そして一回の産卵で10―20個の卵を産み、繁殖温度を外れると休眠する。さなぎの状態で1年も生存可能なのだ。ノミのステージの構成を見ても、成虫は全体の5%に過ぎず、半数は卵、残りが幼虫とさなぎといった具合で、ノミと思っている成虫は氷山の一角で、大半は動物の体以外の環境中で生活している。そして、さくらちゃんの周りには間違いなくそれぞれのステージのノミがたくさん生活しているのだ。
退治には大きくわけて、成虫の駆除、卵や幼虫の発育阻止および除去がある。今現在の吸血を無くすには成虫駆除剤が必要である。しかし、環境中から羽化してくる成虫もどうにかせねばならない。環境の清掃が必要だ。さらに、年間という長い目でノミ寄生を防ぐことを考えれば、卵や幼虫の発育阻止剤も併用が好ましい。
実際、フィラリア症予防剤とノミ発育阻害剤の合剤を使ってもらっている動物は、ノミの発生前に発育阻止剤を服用できていて、たまたまノミの成虫を散歩で拾ってきても、家がノミの卵や幼虫で汚染されることがない。従って、家の中で羽化してくる成虫はいないわけで、重度の寄生には決してならない。子犬のときからこの合剤を服用していれば、ノミに吸血される頻度が激減するため、ノミアレルギーになる可能性も下がるといえる。更に言えば、安全といわれる成虫駆除剤といえども昆虫を殺す農薬の一種である。哺乳類には一切関係のない昆虫発育阻害剤のほうが、安全性という側面からも気分がいい。
「さくらちゃんには、フィラリア予防剤をノミの発育阻止剤との合剤に代えてもらって、成虫駆除剤も月に一度背中に滴下してもらいましょう。その上で、環境の清掃もマメにしてあげて下さい。」
「そうすることで、ノミアレルギーの元凶であるノミ寄生を断つことができます。ノミに対してアレルギー体質であることはもう生涯変わることはありませんので、吸血されてしまえば激しいカユミに襲われますし、ステロイドも使わざるを得ません。」
「わかりました。毎年これではさくらも余りに可哀想ですし、さっき見せていただいた、ノミの幼虫のビデオがショックでした。掃除もがんばります。」
さくらちゃんのお母さんには、話しをしながらノミの生態のビデオを見てもらっていたのだ。実際、絨毯のなかでミクロの青虫みたいなのがうごめいているのは、気持ちのいいものではない。
20年前は、決して今ほどしっかりノミ寄生をコントロールすることはできなかった。メーカー同士の競争は熾烈だが、結果としてよりよい製剤が産み出されるのは良いことだ。そう思いながら、
「2、3日でゆっくり寝られるよ」とさくらちゃんに話しかけた。
(文責:よしうち)
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