2005年8月1日
腫瘍学
おなかが出てきた犬の話
人には色々なタイプがあると思うのだが、ここ一番というときに真価を発揮できる人、そうでない人、もちろん時と場合にもよるのだろうが、逆境をものともしない強さが求められることがある。例えばテニスの3セットマッチ、1セットオールで迎えた第3セット、お互いサービスゲームをキープした第10ゲーム、ブレークされれば4―6でゲームオーバーの場面で3本連取されてトリプルのマッチポイント、もう1本も落とせない。絶体絶命の場面だ。
自分たちの仕事にも、まさに読んで字の如く絶体絶命のピンチが動物たちに訪れていることがある。しかし、テニスの試合のように誰の目にも絶体絶命と分かるのならばよいのだが、存外、動物たちはケロッとしていることも少なくない。
次のカルテはと手に取ると、日本犬の小次郎くん、オス、11歳。最近おなかが出てきた、元気が無いとメモ書きがある。これは、いわゆる腹囲膨満という症状を鑑別していくことになる。少なくとも小次郎くんには妊娠や子宮の病気はありえない。胃腸の拡張、腹部臓器の腫大、クッシング病(2001年5月のコラム参照)、腹腔内腫瘤、腹水など、いずれをとっても半端な問題ではない。単に肥満ということもあるかもしれないが、そんなときは、最近などとは言わないものだ。そんなことを考えながら、急いで診察室に入っていただいた。
「おなかが出てきたのはいつ位からでしょうか?」
そう質問すると、お母さんは、
「大体1―2ヶ月くらい前からです。」
と、きっぱり。
「そうですか、おなかが出てくるというのは、大変な問題のことが多いものです。」
心配そうな顔をされたお母さんに、
「身体検査をしてから、血液とレントゲンの検査をさせてください。」
とお願いすると、快く承知していただけた。
腹部の触診では、いくらか液体の貯留はありそうで、かなり大きな塊も手に触れた。口唇の粘膜は蒼白気味で、明らかに貧血もありそうだ。
採血をし、レントゲンの撮影を済ませる。15分もあれば全ての結果は出揃うのだが、その間が待ち遠しい。
ようやくでた結果に眼を走らせると、赤血球容積が19%で正常値の半分、白血球数の増多があり、肝酵素値も高い。フィラリアの抗原は(―)。腹部レントゲン像は、全体にディテールが悪く液体貯留がありそうで、胃の後ろちょうど腹部のど真ん中にメロン大の腫瘤が認められる。
再度、診察室に入ってもらい
「追加の検査を行いたいのでもう一度採血をさせてください。」
とお願いし、別の抗凝固剤の入ったキュベットに採血する。凝固系の検査を実施しなければならないのだ。それを看護婦さんに手渡してから、お母さんに話し始めた。
「ことは非常に切迫しています。小次郎くんを見て感じる以上に状況は悪いです。」
「おなかの中にガンの塊が出来てきて大きくなり、その一部の組織が死んでしまったか、裂けるかして、おなかの中に出血が始まっています。元気がなくなった1週間くらい前から既にじわじわと出血が始まっていたかもしれません。」
こちらのただならぬ口調にお母さんの顔も緊張する。うまく理解していただけるだろうか? そんな不安も沸いてくるのだが、とことん説明するしかない。
ガンの塊が脾臓からなのか、肝臓からなのか、それ以外のこともある。しかも、取りきれるものなのかどうかも分からない。さらに、うまく切除できても、悪性度の高いものであればすでに腹腔内にガン細胞がばら撒かれていて、再発を避けられないかもしれない。しかし、切除以外に助かる道はないのだ。
そんな説明をしているところへ凝固系検査の結果が戻ってきた。PT・APTTともに明らかな延長。一刻の猶予もならない。
凝固時間の延長は、凝固因子が枯渇しかけていることを示している。持続的な出血にもよるのだろうが、DICと呼ばれるような全身的な凝固亢進後の凝固不全がはじまっている可能性もある。そして急速に多臓器不全へと進む。
「お母さん、今回はこうすれば助かりますよというお話ではありません。ガンの塊をとる以外に助ける方法はないのですが、安全に確実に取れるという保証はどこにもありません。トライするかどうかということで、結果は良いことも悪いこともあります。」
お母さんだけでは決断できないだろうと思いながら、しかし、刻々と時間は過ぎてゆく。
「残された時間は多くはありません。お父さんとご相談されますか。」
と水を向けると、ふと我に帰ったようにお母さんは、
「主人を呼びます。少し待ってください。」
と待合へ出て行かれた。
その間、いつ容態が急変してもおかしくない。突然出血が激しくなることもある。多臓器不全が始まるかもしれない。輸血のため、供血犬から採血する準備をし、低分子ヘパリンを準備する。忙しく動きながらも、過去の同様な症例が頭をよぎる。
うまくいった症例の方が多いはずなのに、そうでない症例を思い出してしまう。すでに腹腔内全体に播種が起こっているもの、術中に容態が急変したもの。大抵の飼い主さんは結果が悪くても、状況を理解し、自分たちの労をねぎらってくれるものだが、術前の「お願いします」が手の平を返したように、「駄目なことが分かっていて手術を勧めたのだろう」とか、「手術のせいで亡くなったのだろう」と、こちらの落胆にさらにとどめを刺されるようなクレームを頂戴することもある。そんなネガティブな思いを頭から追い払い、小次郎くんを助けるには今やるっきゃないのだと自分に言い聞かせる。
お父さんが到着され、お母さんにしたと同じような説明をもう一度最初から丁寧に繰り返す。
「この年齢、犬種、部位からは、脾臓の血管肉腫か血管腫のことが経験的には多いと考えています。脾臓であれば全切除可能な臓器ですから、望みはあります。」
「けれども、そうでない臓器の腫瘍も否定は出来ませんし、術中に容態が急変することもあります。脾臓の腫瘍で切除できても、悪性度の高いものであれば再発は避けることができません。」
「厳しい話ですが、現実です。」
手術をするのならば、輸血をしながらの手術になること、転移の状況が激しければ開腹して直ぐに閉じるだけになること、その際は安楽死も選択肢の一つとして考えたほうがよいことなどを説明した。
「小次郎は毎日のわしの散歩のあいてやったんや。」
「一か八かやったってもらえますか。」
竹を割ったようなお父さんの性格に、決断は早かった。
「手続きとかは、かかに任しとくからよろしたのんまっさ。」
そう言って部屋を出ようとするおとうさんの眼は少し潤んでいる。小次郎くんのことを思いながら一杯ひっかけにでも行かれるのだろうか。
「今から準備をし、整いしだい全力でやらせていただきます。」
とお父さんの背中に最敬礼した。
3日後、廊下を歩いていると入院室のドアが開き、
「せんせ、おーきに」
と、お父さん。小次郎くんの面会に来られていた。小次郎くんはというと、昨日からパクパク食事を取り、一般状態の改善が著しい。
お父さんの即決で実施した手術では、腹腔内に大量の血液が貯留し、それをサクションで吸引したところ、やはり脾臓に大きな腫瘤ができていた。そして、その塊の3分の1位が自壊して崩れかけており、そこから持続的な出血が起こっていたのだった。ハーモニックスカルペルという超音波で止血凝固させる機械を用いて血管をひとつずつ止めながら脾臓を慎重に全切除した。肉眼的には腹腔内への播種は全く認められなかった。予後の判定は1週間ほどで戻ってくる病理組織検査の結果にゆだねられることになる。
「病理の結果が気になりますね。」
そう話しかけると、
「むつかしことはわからんが、いっときでもこうやって元気になってくれただけで満足や。」
と、お父さん。その膝元では、
「(いつ退院できるの?)」
とでも問いかけているような小次郎くんのつぶらな瞳が並び、それとは対照的に、尻尾だけはせわしなくお父さんへのラブコールを送り続けているのだった。
(文責:よしうち)
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