2006年6月1日
整形外科
「大腿骨頭」の話
本来、私たちが感じる痛みというものは、危険を感知するために備え付けられた機能だ。痛みは症状として現われ、警告信号として働き、どこかに病巣があることを知らせてくれる。痛みは痛覚受容器によって感知される。つまり、何らかの刺激で痛覚受容器が興奮し、その信号が脳に伝わり、痛みを感じるということになる。この痛みが急性痛なのだ。
一方、最近、慢性痛という言葉をよく耳にする。一般的には長い期間痛みが続いている時に用いられるのだが、この慢性痛の中には、ただ単に急性痛が長引いているものと、それとは痛みの発症メカニズムがまったく異なる慢性痛症とよばれるものが含まれている。この慢性痛症で発生している痛みは、強い痛みの持続や神経の傷害によって神経系に何らかの可塑的な変容が起こったために発生していることが明らかになっている。
それでは動物たちの痛みはどうなのだろうか。動物たちに痛みがあることは疑う余地がない。けれども、自分たちがうまくそれに気づくことができているかというと、大いに疑問が残るのも事実なのだ。強い痛みを生じる状況では、体動を嫌い、触ろうとしても怒ったり、泣き叫んだりして痛みの存在は明白となる。しかし、ある程度以下の痛みに関しては、ただ我慢し、時にはふさぎ込むだけだったり、食欲が少し無いくらいだったりと、うまく理解してあげることができていない場合が多いのかもしれない。また、どこかを痛がっているのではというようなそぶり(たとえば抱き上げようとするとキャンと一声なくというような)に気づいて、動物の体中を触りまくっても一体どこが痛いのかさっぱりわからないというような場面にもよく遭遇する。急性痛にしてこれなのだから、慢性痛ともなるといったい本当にそれが動物たちに存在しうるものなのか確かめることすら困難なのかもしれない。
次のカルテはと手に取ると、ミニチュアピンシャーの琢磨くん8ヶ月令。右足を挙げるとメモ書きがある。さっそく診察室に入ってもらった。
精悍な体躯と顔立ちに垂れ下がった耳が妙にかわいい。お母さんの顔を心配そうに見つめる琢磨くんを抱っこしているお母さんの顔も心配げだ。そのお母さんに微笑みかけながら、
「少し下におろして歩かせてあげてもらえますか。」と声をかける。
なまめかしい位につややかな短毛に覆われた琢磨くんの体表に惚れ惚れしながらその歩様を観察する。確かに右後肢の負重を嫌い、明らかな跛行がある。
「そうですね。右後足には問題がありそうですね。」
そう言って琢磨くんを抱き上げ、診察台の上にのせた。体重を測定し、身体検査を始める。そして、問題の患肢を優しく足先から触診する。一見チワワと見まがうような琢磨くんの四肢はカモシカのようにきゃしゃだが、密生した産毛のように柔らかい被毛と手のひらで解けてしまうような錯覚を覚えるほど弾力のある皮膚を通して、解剖学のテキストのように一つ一つの筋肉や靭帯が触知できる。
前脛骨筋から前脛骨稜そしてそこに付着する膝蓋靭帯は張りがあり内面に位置する膝蓋骨はきちんと大腿骨の滑車溝上を上下動する。膝蓋骨の内方への動きを制限する外側支帯に緩みはなく膝関節全体としても十分な剛性を保っている。その膝蓋靭帯に続く大腿筋膜とそれに包まれた四頭筋群、後方の半筋様筋、半膜様筋、二頭筋、内転筋を触りながら、異常に気づく。やせているのだ。改めて反対側の大腿筋群と比較してみる。明らかに筋肉の分量が右側のほうが少ない。そーっと右の内股に手をあてがい外転させようと少し力を入れるやいなや、「キュン」と琢磨くんは声を上げ、いままで触診に身を任せていたのが嘘のようにお母さんの方へにじり寄る。
「股関節に問題がありますね。レントゲン撮影をしますので少しお待ちください。詳しいお話はその結果を見てからということで。」
そう言って琢磨くんを抱っこし、お母さんを部屋に残したままレントゲン室へと向かった。年齢・犬種・症状、すべてがひとつの疾患を指し示している。大腿骨頭の病巣がどの程度のものなのか、それを確認するためのレントゲン検査となった。
結果は予想以上に悪いものだった。大腿骨頭の透過性が増し、扁平化して大転子との間にスペースがなく、骨棘が認められるほどの激しい骨関節炎を起こしている。この病気の最終段階的な激しい変形なのだ。そんな逐一の所見はさておき、原因と今後について、しっかりお母さんと話さなければ。そう考えながらフィルム片手に診察室へときびすを返した。
レントゲン写真
心配そうにフィルムを覗き込むお母さんに
「原因ははっきりしました。かなり重症ですが治療法はありますし、治せます。今から話すことを良く聞いてください。」そう切り出したのだった。
病名は「Legg-Calve-Perthes病」。「レッグペルテス」とか「大腿骨頭の虚血性壊死」という用語もこの病気を指して用いられる。大腿骨の付け根側に分布する血管に障害が起こり、大腿骨頭・骨頸の部分に血液が供給されなくなることが事の起こりとなる。遺伝性の疾患と考えられていて、罹患動物の多くは5―8か月齢といわれている。この疾患は転落などの外傷とは無関係に、静かに潜かに誰にも気づかれることなく始まる。そして徐々に大腿骨頭の軟骨下骨が壊死し、軟骨がはがれ、削れ、同時に体は最大限の再生を試み、血管を再分布させ、骨関節炎の様相となり結果として変形がゆっくりと進むことになる。動物は痛みから肢を使いたがらず、筋肉が萎縮することになる。
通常、消炎鎮痛薬と休息による温存療法の成功はよほど早期にこの病気を発見した場合に限られ、ほとんどの症例では、大腿骨頭および大腿骨頸の切除と術後早期からの活発な運動が選択されるべき治療法となる。患部を温存したままのケージレストや鎮痛療法は、長引く急性痛の原因となり、動物へのストレスや、性格への影響、慢性痛症への移行の可能性などの問題を含め回避すべき選択と考えたほうが良いだろう。
二足歩行するヒトとは違い、イヌでは大腿骨頭および大腿骨頸の切除は、疼痛を消失させ患肢を使い始めることで、元の股関節部分に結合織性の偽関節を形成させることができる。そして本来の関節とまったく遜色のない機能を発揮できるようになるのだ。つまり完全回復率はほぼ100%といえる。
「わかりました。大変な病気であること、手術が必要であること、術後は機能を回復できることなど、十分説明いただいて、なんだかほっとしました。」と、お母さん。
その日のうちに、お父さんと相談の上で手術の予約が入った。
2日後に手術も無事に終わり、術後3日ほどの入院で退院となり、さらにその1週間後の抜糸の日が来た。
診察室に琢磨くんとお母さんを呼び入れると、
「先生、まだ十分には踏ん張れませんが、チョンチョンと足をついてくれるんです。何よりも、痛みがなくなったからか、本当に元気になって、こんなにうれしそうにしている琢磨を今まで見たことがありません。ずいぶん前からこの病気が始まっていたのですね。」
と、一気にお母さんから喜びの声がほとばしる。
抜糸をしながら、
「よかったですね。なかなかヒトの痛みはわかりにくいですが、それがワンちゃんともなるとなおさらですから。長い間痛みに耐えていたんですね。」
「術後の回復も順調そうですから、そろそろしっかり運動をさせ始めていただいてOKですよ。」
「足をしっかりと使えば使うほど、強靭な結合織性の関節が形成されるんです。」
そんな話をしながら抜糸も終わり、診察台からおろしてもらった琢磨くんは、あのおとなしかった琢磨君とは人が変わったように大はしゃぎして、棚にしまってあったアンダーシーツを引きずり出してしまった。
「そんな悪さができるんやったら、もう大丈夫。」
と琢磨くんに話しかける。
ミッキーマウスのような満面の笑顔でぺろりと舌を一なめした琢磨くんから、
「サンキュー!」と、タメ口のお礼の言葉が飛んできたような気がした。
(文責:よしうち)
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