社会事象

縁の下の力持ちの話

縁の下の力持ちの話

 毎日新聞「記者の目」に以下のような記事が掲載された。筆者は奥野敦史さん(東京科学環境部)。

 安心の番人、人材確保急務 大切な人獣共通感染症抑止 驚きの連続だった。全国のさまざまな職場で働く「獣医師」に焦点を当て、自治体へのアンケートと現場取材をもとに、「安心の番人」(7月15〜19日、東京本社版など)を連載した。都道府県の約半数が獣医師職員の確保に苦慮していた。「驚き」の理由は獣医師の職域、責任の想像以上の大きさと、その事実の認知度が低いことだ。獣医師は私たちの食と健康を縁の下で支えている。今、具体的な人材確保策を打ち出さねば、近い将来、日本の社会は大きな混乱に見舞われるだろう。

  獣医師と聞くと、多くの人はペットの犬や猫を診る仕事と思うだろう。全国で約36,000人(06年)の獣医師のうち、約13,000人がペットなど小動物臨床に携わる。牛や豚などを診る産業動物臨床が約4,200人。公務員獣医師が約9,100人。製薬企業や研究機関で働く獣医師もいる。いずれも獣医師国家試験の合格者で同じ資格だが、近年、ペット獣医師が急増し、公務員獣医師や産業動物獣医師は減り続けている。これが見過ごせない問題だ。

 私が初めて獣医師を取材したのは01年9月、BSE(牛海綿状脳症)が国内初確認された時だった。次が04年の鳥インフルエンザ発生時。その時点では動物の病気だ。「動物を診る医師」の獣医師が乗り出したという認識だった。

 しかし今回、獣医師の職域が単純な「動物の医師」にとどまらないことを知った。東京の卸売市場では野菜や果物、水産加工品まで、食卓に並ぶほとんどの食品の安全確認に獣医師の目が光っている。異常を見つければサンプルを持ち帰り、農薬や添加物などの検査をする。熊本の山あいでは、産業動物獣医師の開業医が12年間、ほぼ無休で牛の健康を守り続けていた。「安全な食肉を供給することで、日本の食文化を守っているという自負がある」。彼の言葉が耳に残る。レストランで起きた食中毒の原因を突き止める仕事にも獣医師がかかわっている。動物を介してうつる人間の病気「人獣共通感染症」の制御も役割だ。

 感染症患者を診察するのは医師だが、予防や感染拡大の防止、感染経路探索には、動物の中で病原体がどう振る舞うかという獣医師の知識が欠かせない。今春の新型インフルエンザでは研究、対策の一翼を担った。人獣共通感染症対策に獣医師が加わるのは、動物を治すためではなく、人間の健康を守るためだ。

 こうした感染症や食品衛生など人の健康にかかわる公衆衛生分野の獣医師は大半が都道府県などの公務員だ。そのなり手が少ないのはなぜか。私は自治体が獣医師の重要性を正確に認識していないか、認識してもそれに見合う待遇をしていないからだと思う。

 私たちの調査では、人材難の理由について、42都道府県が「ペット獣医師として開業する方が人気」、21都道府県が「給与が安い」と答えている。実際、公務員獣医師の待遇の悪さは明白だ。特に同じ6年制大学を卒業した医師職の公務員との給与格差はすさまじく、40代の平均月給で最大50万円の差がある。

 ここ10年、人獣共通感染症の猛威が世界を席巻した。結果、9割以上の都道府県が獣医師の負担増を訴えている。そんな中、魅力ある就職先にするには、やりがいと重責に見合った待遇が必要だ。

 さらに、全国16の獣医学系大学の定員増を提案したい。調査では「定員増を望む」が23、「望まない」は18で、都道府県の意見は割れた。

 農林水産省の審議会は07年、「獣医師の需給に関する検討会報告書」を出した。2040年までの獣医師需給を予測し、産業動物獣医師の不足を指摘したが、原因はペット診療への獣医師の偏在とし、大学定員には触れていない。

 しかし報告書には問題がある。公務員獣医師について「行政のスリム化のため公務員の定員増は見込みにくい」という理由で、単純に06年当時の公務員獣医師の実数を今後30年間の必要数にしている。

 01年のデータでは、ヒトに感染する病原体1415種のうち868種が人獣共通感染症だという。特に新たに発生する「新興感染症」は、75%が人獣共通感染症。SARS(重症急性呼吸器症候群)や新型インフルエンザがその典型だ。世界中から食料が輸入され、飛行機で感染症が即座に拡散する現代。その対策業務が今後減るとは考えられない。私たちが健康に暮らすため、感染症と食品の監視業務は不可欠だ。これを担う獣医師は必要に応じて政策的に増やすべきで、行政のスリム化とは別問題だろう。

 過酷な条件で働く産科医や救急医の待遇改善は多くの悲劇の後、ようやく始まった。医師に比べ獣医師の仕事は地味で、多くの人の目に触れにくい。私たち自身のために必要な人材と認識し、獣医師をめぐるさまざまな環境改善に即、取り組むべきだ。

 皆さんはこの記事を読まれてどのようにお感じになられただろうか。新興感染症が問題化する中で、ようやく縁の下の力持ちに徹していた自分たちの仲間の仕事が脚光を浴び始めた。新卒獣医師の動向にしても、まさに記事の通りで、ペット獣医師人気で片付けてしまう都道府県の認識にはとても承服する気にはなれない。学生時代を振り返れば、天職として感染症の研究をし、人様並みの生活が出来れば充分と考えていた同級生も多かったはず。6年間の学生生活とそれを続けるための学費を考えれば、現在の獣医職公務員の待遇では余りにも理不尽と感じてしまうのは決して打算ではない。安全の番人としての誇りを持ちうる待遇を望んでいるだけなのだ。その結果として、小動物臨床の道へという動機付けがなされてしまう。

 反対に自分たち小動物臨床獣医師にしても、新卒生に打算や人気という言葉だけでこの道を選ばれたのでは堪らない。一般の人たちのみならず警察署や学校などから持ち込まれる保護動物や野生動物、生活などに保護を受けている人たちから持ち込まれる飼育動物、狂犬病予防法に基づく予防接種や登録の業務、人獣共通感染症発生の報告義務、等々、営利とは無縁な仕事のいかに多いことか。自分たちがこの仕事をやらねばいったい誰がその役目を果たしてくれるのだろうと自問することも少なくない。しかも本業の小動物臨床は、診療レベルを向上させ、維持していくのも、それを怠って営利に走るのも自由。法規に反しなければお褒めもお咎めも無い単なるサービス業としての扱いしか受けずに、過当競争の中にある。「人と動物の絆」を信じ、より良い動物医療を求める情熱が無ければ、そこには誇りも存在しないというのが現実だ。

 どの分野の獣医職も社会的な要請と認知の狭間でひたすら我慢を余儀なくされ、動物たちの笑顔が唯一の救いであることも多い。がんばれ、縁の下の力持ち。食の安全や人々の心の安らぎのために。公務員獣医師にも小動物獣医師にも幸あれと祈りたい。

(文責:よしうち)


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