神経科

見えない虫に飛びつく犬の話

見えない虫に飛びつく犬の話

  人にも動物にも、五感というものがある。視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚である。しかし、第六感や霊感というものが動物にも存在するものなのかどうか、自分にはわからない。フリスビードッグがとんでもない方向に飛んで行ったフリスビーを、あたかもコースを予測していたかのようにらくらくとキャッチしてしまうのは、第六感なのかもしれないと思うこともある。誰もいない部屋に向かって吠えている犬には、自分には見えない何かが見えているのかもと、ゾクッとしたものを感じることもある。果たして真実がどういうことなのか、合理的に論理的に説明し得るものなのか、犬や猫に生まれ変わりでもしない限り知る由もないというのが本当のところだろう。

  次のカルテはと手に取ると、チワワのユキちゃんである。1年ほど前にひどい外耳炎になり、洗浄に通ってもらってすっかり良くなった。それからも、定期的に外耳のコンディションのチェックを兼ねて、ケアーに通ってもらっている。すぐに診察室に入ってもらい、外耳の検査と処置を始める。耳鏡を外耳道に優しく挿入する。ユキちゃんは看護婦さんに横に寝かせてもらい、そっと保定を受けているのだが、そこはもう慣れたもの、「早く済ませてね」とでも言うようにチラッとこちらへ視線を送ってはくるものの、体の力は抜けたままである。てきぱきと鼓膜の色調や外耳道の状態を確認し、余分なイヤーワックスを綿棒で拭き取る。申し分のない健全なコンディションである。

  この処置をしながら、ユキちゃんの飼い主さんと四方山話をするのが、お決まりのコースなのだが、きょうの話の中で少し気になったことがあった。

  「私には見えないものが、ユキちゃんには見えるみたいなんです。」

  えっ、という感じで返答に躊躇する仕草が見えたのか、さらに説明は続く。

  「寝ていたのに急に起き上がって、まるで透明なハエか蚊でもいるように、それを食べようと口をパクパクして飛びつくんです。ひとしきりそれが続くとにわかに夢から覚めたように元に戻って、普段と変わらないようになるんですけど。」

  「何かに取り憑かれているとか、背後霊が見えるとか、そんなことってあるんでしょうかね?」

  獣医師も科学者の端くれ。さすがに診察室では霊やら魂やらの話ははばかられる。いや、それどころか、純然たる神経学的異常のこともないとは言えないのだ。
 
  何年か前に、ポケットモンスターのアニメ放送で「光てんかん」が物議をかもしたことがあった。この「てんかん」という病態は、相当に手強い相手である。

  様々な定義が存在するが、比較的わかりやすいものに、「周期的な同一パターンの異常行動で、それに伴って運動性の亢進・意識異常が認められるもの。」というのがある。

  神経学的な分類法ですら様々なものがあるのだが、最近では、原発性・継発性・反応性と大きく3つに分けられ、この内、継発性のものはさらに、活動性と非活動性に分けられる。原発性のてんかんは最近では、遺伝的な脳内生理活性物質の代謝もしくは何らかの異常と考えられており、継発性てんかんは、過去(非活動性)のもしくは現在も進行中(活動性)の脳の外傷や疾患に起因するもの、反応性てんかんは、主に肝臓や腎臓の疾患によって体内に蓄積する有毒物質によるものとされている。活動性の継発性てんかんと反応性てんかんは原因となる疾患の治療とてんかんのコントロールの両方を行うべきだが、原発性てんかんと非活動性の継発性てんかんはてんかんのコントロールが治療のすべてである。

  「霊のことに関してはノーコメントにさせていただきますが、気になることがひとつだけあります。俗に”Fly Biting Seizure=ハエに飛びつくような発作”と呼ばれている状態があります。これもてんかんの一種なんです。そのてんかんならお薬で発作を抑えてあげるほうが好いかもしれません。もちろん同時に意識異常なんかが起きていればその疑いがあるという程度で、単に説明のつかない行動というだけのことかもしれません。今度、ユキちゃんがそういう行動をとったときに話しかけたりして反応を確かめていただきたいですし、できればホームビデオでその時のユキちゃんの行動を録画して見せていただけるとよいのですが。」

  「すいません。つまらない相談なのに一生懸命答えていただいて。でも、とても気になるので、ビデオに撮れたら持ってきますね。」

   ユキちゃんの飼い主さんは、外耳処置の間の徒然にふと尋ねてみたくなっただけだったようで、余りに真面目な答えが返ってきて、大いに恐縮されたようだった。

  処置が終わり「ありがとうございました。」とにっこり微笑んだ飼い主さんの顔には、FBSでなければ良いのだがというこちらの心配をよそに、「何でも訊いてみるものね:^^」という大いなる満足感があふれている様だった。

(文責:よしうち)


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